すべてに理由を求めると、創作はしんどくなる
最近よく思うんです。
「なんでこれを作ったの?」「そのゲームってどういう意図?」
——そうやって、すべてに“理由”を求めることが社会人になると、多くなったと。
もちろん、それ自体が悪いとは思っていません。
意味や目的があるのは大事です。でも、なんでもかんでも理由で語ろうとすると、創作が息苦しくなる。
今回は、ゲームを作るときに僕が感じている「理由に縛られすぎるしんどさ」について書いてみます。
なぜ“理由”を求められると疲れるのか?
今の時代、何かをやるたびに「なぜ?」と問われることが多いのではないでしょうか。
- なぜそのジャンル?
- なぜそのデザイン?
- なぜその収益モデル?
- そのゲームにどんなメッセージがあるのか?
全部聞かれる。全部説明を求められる。
例えば会社で企画を提案したときなんかもそうで、
「なぜそのターゲット層なんですか?」
「この部分、もう少し論理的に詰めたほうがいいですね」
みたいなフィードバックはよくあると思います。
そして、それはたしかに大事なことです。
検討や分析がなければ、アイデアが独りよがりになってしまう。
でも、だからといって、何をするにも理由が必要だと考えると、動けなくなるんですよね。
“なんとなく”で作ることの価値
僕がゲームを作るとき、一番最初にあるのは「これ、なんか面白そう」という感覚です。
そこに深い意図や意味があるわけじゃない。
たとえば「惚れたら終わりのホラーゲーム」とか、
「椅子に縛られて姫と会話するだけのゲーム」とか。
全部、「なんかアホっぽくて笑えるな」って思ったことがきっかけ。
思いついたから、やってみた。
ただそれだけ。
企画書も目的もとくにない。
“なんとなく”で作ったゲームが、一番おもしろかったりする。(個人の意見です)
理由を求めすぎると、止まる
逆に、「ちゃんとした理由」を考えようとすると、手が止まることがあります。
- これ、需要あるかな?
- 競合とどう差別化する?
- 誰がこのゲームを遊ぶんだろう?
- オチが弱いかも…
……と考えているうちに、何も形にならないまま、ネタが消えてしまう。
もちろん、市場を読む力や論理的思考は大切です。
でも、「作ってみたい」という気持ちにフタをしてしまうほどの理由付けは、本末転倒だと思っています。
ゲーム制作では“思いつき”が最初でいいと思う
僕は大企業でゲーム開発をしているわけじゃありません。
マーケティングの専門家でもありません。
ただ、趣味でバカゲーやホラーゲームを作っている個人開発者です。
だからこそ思うんですが、趣味でゲームを作るくらいなら、“なんとなく”で始めたっていいと思っています。
それが後から「もっと多くの人に遊んでもらうには?」とか、
「どうすれば収益化につながるか?」という視点に繋がるなら、それで十分です。
最初から全部を計算しなくても、あとから見直せばいい。
“動く”→“考える”でいいじゃないか
作ったあとで、「なんでこれ作ったんだっけ?」って自分でも思うことはあります。
でも、そのときに初めて言語化すればいい。
プレイヤーが「これ、社会風刺なの?」って言ってくれたら、
「いや、そういう見方もあるのか!」ってなる。
他人の感想から“理由”が浮かび上がることだってある。
だから僕は、
- とりあえず動いてみる
- とりあえず作ってみる
- とりあえず出してみる
そのくらいの雑さで、いいと思っています。
まとめ:理由に縛られすぎない創作をしよう
「なぜ作ったのか?」という問いに、ちゃんと答えられないときもある。
でも、それでいい。
むしろそれが、一番自由で自然な創作なんじゃないかと思う。
全部に理由を求めると、しんどくなる。
たまには、意味がなくても楽しいものを本気で作ってもいい。
検討や分析は、あとから必要だと思ったときにやればいい。
最初は、「これ作ってみたい」という気持ちだけで、十分だと思います。
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